規制の強化、それは行政への権限の回帰、そして政治の不作為の現れである。
物事には必ず裏表があり、絶対というものはない。そのバランスを取るのが政治の役割であり、民主主義の仕組みでもある。強い信念を持って進める政策であるなら、マニュフェストにおいて、選挙で信を問えばいい。
民主党政権以降に加速する規制の強化は、もっと非難されるべきことである。
規制緩和とは、強国からの圧力からでも、国民受けを狙う安易なパフォーマンスから行うことでもない、既得権益からの大きな批判に耐えながら、新たな産業の創出、新陳代謝による市場の活性化、そこで生み出される経済効果を優先する、国家の成長のために必要な新たな一歩を踏み出すために、長期的なビジョンと信念に基づく政治決断により行うことである。
ようやく権力を握った弱き人間のさがか、全てをコントロールすることに存在価値を見出し、耳に届く大きな声や国民受けするパフォーマンス(≒国民の声)を第一に、あまりにも安易に国民の生活を制限していく。結論ありきの判断に、議論を通じた政策の形成など行われるわけもなく、全体のバランスを取るという政治の体は、はやなしていない。
規制強化、民間企業の国営化、そして社会的弱者と自ら都合よく括った人々へのとめどないバラマキ、市場経済を無視して進める政権与党の政策は、社会主義国家そのもの。「今の」国民の生活が第一、「これからの」国家など票にはならないのだからと。
コンクリートから、人へ。それは、決して人の育成に重点を移し、頭脳により将来の国家の成長を担おうというもではない。将来の経済成長を捨て、戦後、これまで積み上げてきたパイ(富)を、今ある人々で食い尽くそうというもの。投資をしなければ、成長など見込めないことは、人や企業と同様、国家においても同じこと。
くさいものに蓋をし、人々の暮らしを制限していく。極論による過剰な対応は、起きた責任に対する批判を免れる安易な手段だが、根本的な解決の放棄でもある。そこで、失われる自由を、本来国民は自ら求めるべきことであるはずだ。
この政権の、優等生志向には、辟易する。どうすれば、怒られないか、自分の責任を逃れられるか、そればかりを考えている。先生に怒られようとも、必要であれば自分の意志を貫き、仲間を守るという、お山の大将(リーダー)的な気概は微塵も感じない。だから、この政権から出てくる結論は、非難にまで値しない無難なものばかりで、その場の空気を反映したような、ご都合主義の軽い乗りに終始しているのではなかろうか。
タクシー、雇用(派遣労働)、乗合バス、医薬品ネット販売、生食用食肉、消費者金融、コンプガチャ等々、話題になるたびに、何かにとりつかれたような極端な規制から得られる利益は何なのか。「国が決めたことだから仕方がない」という姿勢がもたらしたのが福島原発事故だとする国会原発事故調委員会の結論を引用するなら、検証・非難が起きにくい国民性を踏まえた上で、本来代わって求められるその役割を担うことなく、軽々しくその瞬間の空気で国民の生活に直結する内容を決断しているというなら、政権の姿勢そのものを非難すべきことである。
そうして、議論を尽くさず、その場の空気で決めた結論がもたらす歪みは、元に戻すことができないほどの大きなねじれをもたらす。当初から想定されていた通り、早くも、製造業への派遣労働は認める方向に転換し、消費者金融も闇へと流れた債務者を懸念し緩和の方向で検討が始まった。コンプガチャ規制など、成人の娯楽に国家が関与する理由がわからない。その前に、納税面も含め、よほど民営ギャンブルのパチンコをどうにかすべきと思わないのだろうか(支持母体ということは百も承知の上での皮肉)。おかげで、海外に輸出可能なソフト産業が瀕死の状況に陥っている(ようやく出てきた収益を上げられそうなクールジャパンのコンテンツが…)。
規制とは、緩和するのが政治であり、強化を求めるのが行政。感情論抜きに高い政策効果を求めるなら極論は有効な手法だが、実態に即して配慮した結論を下すのが、政治の役割である。規制強化が目立つのは、今の政権の主導権がどこにあるかを指し示すものでもある。優秀な官僚は、最も効果的で、非の打ち所のない厳格な手法を考え出す。政治が、その目的を認識し、その手法に魂を入れなければ、それは単なる国民をコントロールする術でしかなくなる。それを理解できず、視野が広がらず、責任を逃れるための安易な安全策を選んでいるとしたら、まさに、政治の責任の放棄であり、政権を持つに値しないと政党と非難するわけである。
とどのつまり、なぜ、生肉が食べられない、という思いがここまで民主党を非難させる。一度の、聞いたこともない焼肉屋の一事件で、全国民の食文化を勝手に規制するな。まじめに、国の規制を守る国民。フクシマレポートにいう権威に従順というより、国家警察を恐れてのことか。
この国は、国民総出で疑似監視社会を作り上げる、潜在的な権力志向の集まりだからな。違反には、勇んで国民からの密告が期待できよう(全国民を巻き込んだオウム・高橋容疑者の追い込みは恐ろしかった。江戸時代の村請制度、相互監視社会により作り上げられた精神か、はたまた日本人が古代より持つ卑しさか。ともあれ、その特徴が開花したネット社会には、何よりの嫌悪感)。
ギンチク牧場の牛タタキを食べることは、もう叶わないのか。食べ物の恨みは、なかなかとれそうにないところで。
(余談)
・民主党は非難するが、他は他で大いに問題。自民・谷垣氏は、むしろ民主党同様の思想だから、全く支持する気がない。それに輪をかける小沢氏は、完全に毛嫌い。ただ、嫌いと排除は別で、検察審査会あり方に対する批判姿勢は変わらない。
・消費税増税は賛成に近い。ただ、納税者が偏る所得税から、より幅広く税負担を求める消費税に切り替える目的が薄れ、単純な増税だけになったことに疑問。議論の根幹にあった、国家運営の根幹をなす、国民負担のあり方はどこへ。
・60歳以上の貯蓄率、働く世代の減少から、現時点の収入ではなく、使うお金、手元のお金を基準に負担を求めることは、必然では。それにもかかわらず、再び、所得に応じて減税、交付金支給をすることに大いに疑問。少なくとも、所得、社会保障利用実績を把握できる国民総背番号制導入後に対応すべきことだろう。まずは、税還付が先だとか、どこまでいい人ぶって、同じ過ちを繰り返せば気が済むのか。優等生政治家の人気取りのつけを、こっちが負担することになるかと思うと、一刻も早く引きずりおろしたいとの衝動に駆られるこの頃で。